みなさん、こんにちは。昨日早朝(6時半)無事タイ・カンボジア出張から帰国しました。日本は、寒い!ですね。今まで日中30度の国で日焼けまでしてしまった私としては、非常に、なんか辛いです。
<タイ報告(2)>
前回のメルマガ以降の活動について、簡潔に報告します。12月26日は、タイ政府主催の津波一周年記念追悼式典の関連行事にほぼ一日中、日本政府代表として出席しました。午前中は、最も被害が深刻で4千人以上の方が亡くなられたカオラック地域の追悼式典に参加し、献花もしました。献花する祭壇の目の前には数百トンの重さがあると思われるタイ警察の海上巡視艇が打ち上げられたままになっており、内陸1キロ以上の当地までこの船を運んだ津波のすさまじい威力を改めて痛感しました。
式典の帰りに、タイ政府の用意した車の運転手にお願いして海岸線まで行きました。中国系(おそらく華僑)の人たちが集まって中国語の追悼式典をしている側に建設中のホテルがありました。ここで日本人の方も亡くなられたとのこと。当時のホテルは跡形も無く破壊され流されたそうです。
午後は、タイのタクシン首相をはじめほぼ全閣僚がそろっての追悼式典が別会場で2回にわたって行われました。海外からの来賓は、私のほかにオランダ内務大臣、ノルウェー前外務大臣、英国外務省政務官、等がおりました。2回の式典とも素晴らしい内容で、参列者は感動していたと思います。特に、2回目の式典はInter-faith (各宗教合同)の慰霊式典で、仏教・イスラム教・キリスト教・ヒンズー教・ユダヤ教の追悼の祈りの後、ただ一人の息子を津波で失ったタイの王妃の一人も参加する中、合唱あり空中灯篭(とうろう)の打ち上げありで、非常に感動的なものでした。特に5000もの灯篭を空に打ち上げる(気球の原理を使ったもので、タイで1000年以上の歴史をもつ風習)儀式には、参列者の間から感嘆の声がしきりと漏れるくらい美しく、タイ政府の本格的な演出力に驚きました。暗い海岸線の空に灯篭がぐんぐん昇っていくのを見ながら、日本人29人を含む津波の犠牲者に追悼の祈りをささげました。
式典終了後、私が宿泊しているメリディアンホテルで夕食会がありました。この席上、私は麻生外務大臣の親書をタイの副首相に手渡し、またタクシン首相とも会話することができました。タクシン首相は、今国内のマスコミで色々と言われておりますが、式典中の様子も含めた私の印象は、非常に優秀で強いリーダーシップをもつ政治家、というものです。来年にはタイと日本両国の間でEPA(経済連携協定)を樹立する方向です。両国関係の強化を約束する良い機会となりました。
<感動のカンボジア初訪問>
翌27日早朝にプーケットを出発し、バンコクを経由して午後にはカンボジアの首都プノンペンに入りました。先ず、空港近くの仏教寺院を訪れ、カンボジア復興支援の最中に殉職された警察庁の故・高田警視の慰霊碑に献花を行いました。
その後、プノンペン市内に入り、カンボジア国民会議議長のラナリット殿下と副首相のソック・アン大臣とそれぞれ約45分間会談しました。両氏とも英語がおできになるので、通訳なしで対談しました。おかげで、多岐にわたる話題について意見交換をすることができました。ラナリット殿下は、カンボジア王家の一員ですが、フランスの大学で今でも教鞭を取る学識者でもあり、かつ今の連立政府の一角であるフンシンペック党党首でもあります。ソック・アン副首相も、フン・セン首相の右腕として新生カンボジアを支えてきた重要人物で、非常に深い見識をもつ方でアセアン諸国内でも著名です。
会談では経済協力の話から、クメールルージュ裁判の実施(来年を予定)準備、人権問題等、多くの話題に話が及びましたが、とにかく両氏とも日本の積年の支援に対して非常に感謝しており、終始和やかな雰囲気で意見交換をすることができました。また、両氏ともヨーロッパ留学経験があり、議論が丁々発止でできるので、私個人としても大変話しやすかったです。かのアンコールワット時代に帝国を築いたクメール人の末裔がいかに優秀か、その一端を垣間見たような気がします。
翌日は、夕方には日本に向けて帰国の途に着きましたが、日中は、精力的に活動しました。朝一番でナオ・ハムホン外務大臣(兼副首相)と会談、その後プノンペン市内の視察を行い、夕刻までに、日本カンボジア友好橋(ODA支援で供与)、クメールルージュによる虐殺が行われた校舎(トゥオスレン博物館)、CMAC(カンボジア地雷除去センター)、王立博物館、中央市場、日本カンボジア協力センター、などを訪問し、場所によってはスタッフと意見交換をしました。また、時間の合間に、高田警視同様殉職されたUNV職員の故・中田氏の慰霊碑でも献花を行いました。
<人間の狂気:クメールルージュの虐殺現場>
視察で訪れた場所それぞれで、色々と勉強になり、カンボジアの歴史や文化、現在の課題などを学ぶことができました。しかし、なんと言っても私が最も衝撃を受けたのは、虐殺が行われた校舎です。ポル・ポトという狂った指導者に率いられたクメールルージュが首都プノンペンを制圧し、知識層(実際には無差別に民衆を対象)を中心に虐殺を行ったのは1975年から4年間。それほど遠い昔のことではありません。約150万から(人によっては)300万人もの人々が殺戮されたと言われ、来年国連が主体となって行うクメールルージュ裁判で初めてこの責任が裁かれます。(虐殺された人々が埋められた場所は英語で「killing field」(キリング・フィールド=同名の映画が有名)と呼ばれますが、案内者によれば現在カンボジア国内で394ヶ所確認されているとのこと。)
訪れた校舎では日常的に拷問・処刑が繰り返されたといい、私は案内者の説明を聞きながら、ここで無念の思いを抱いて苦しみ亡くなった人たちの心境を思い、涙をこらえるのに必死でした。一つの校舎の中には、そこで殺害された人々の写真の一部がパネルに貼られて並んでいました。一枚のパネルの前に立った時、私は愕然として言葉を無くしました。全部、可愛い顔をした子どもたちだったのです。4-5歳の愛くるしい顔をした男の子の顔から小学生くらいの少女まで、番号札を首から下げてやや緊張した顔をして白黒写真に写っています。皆、無残に殺されたといいます。こんな子どもたちを、誰がどんな理由で、殺せるのでしょうか。人間が、こんなことできるのでしょうか。
別の部屋に移ると、正面と側面から撮影された若い女性の写真のアップがありました。この人はポル・ポトに粛清されたクメールルージュ幹部将校の妻で、夫に続いて殺される前に撮影されたとの説明でした。死を覚悟しているのか毅然とした表情だったのですが、一筋の涙が右目から流れています。私は何気なくその写真を見て他の部屋に移動したのですが、数部屋先の部屋で再びこの女性の写真が掲示されているのを見て、絶句しました。2度目の写真は彼女の全景写真だったのですが、なんと彼女の手には、生まれたばかりの乳児が抱かれていたのです。若い母親の一筋の涙は、きっとこの子のために流されたのでしょう。その赤ん坊も、撮影の後、殺された、といいます・・・。やり場のない怒りで、頭の中が真っ白になりました。
私は、博物館を後にしながら、この狂気はカンボジア固有の問題とは全く違う次元の問題だと感じました。人類史の中では、世界各地で虐殺事件が起き、それも遠い昔だけでなくカンボジアやもっと最近のルワンダなどでも起こってきています。こんな悲劇が二度とおこらない国際社会を築くために、私たちは努力を惜しんではならないと、強く強く思います。
<明年もよろしくお願いします>
さて、最後に、年末のご挨拶です。本年は、都議会議員選挙や突然解散の衆院選挙で、多くの人にご支援をいただき、感謝の念でいっぱいです。来年も、公明党議員として外務大臣政務官として、しっかりがんばっていく決意ですので、どうかよろしくお願いいたします。今年一年間、本当にありがとうございました。